浦賀ドックウラガドック

Uraga Dock
走水・観音崎・大津・浦賀
浦賀駅の階段を下ると、造船所跡の巨大な建物とクレーン(一部解体しています)が目の前に広がります。ここは、一世紀以上にわたって約1,000隻にのぼる艦船等を造り続けてきた住友重機械工業株式会社旧浦賀工場の跡地です。
平成15年(2003)に閉鎖されるまで、日本丸や海王丸をはじめ、青函連絡船・護衛艦などの船がこの造船所で建造され、街はで働く人たちでにぎわいました。
レンガ造りのドライドック(明治32年(1899)建造)を見られるのは国内で唯一ここだけです。
令和3年(2021)にドックを含む周辺部について住友重機械工業株式会社から横須賀市に寄付していただきました。

information

基本情報
住所
横須賀市浦賀4-7
アクセス
京急浦賀駅から徒歩10分

barrier free

バリアフリー対応
エレベーター ×
エスカレーター ×
入り口段差解消のための措置(スロープを含む) ×
車いす対応トイレ ×
オストメイト対応トイレ ×
車いす貸し出し ×
子供用オムツ替えシート ×
ユニバーサルシート
(大人用オムツ替えシート)
×
障害者等用の駐車場 ×
誘導用ブロック ×

access

アクセス

about

スポットについて
歴史・文化
浦賀ドック 今むかし

浦賀での造船の歴史は古く、安政元年(1854)現在は暗渠となっている浦賀駅前を流れる「長川」の河口で、中島三郎助らにより日本最初の洋式軍艦である鳳凰丸が建造されました。太平洋横断直前の咸臨丸も、この河口で修理が行われました。
明治24年(1891)中島三郎助の23回忌にあたり、函館戦争の同志であった荒井郁之助が浦賀に造船所を造ることを提唱しました。榎本武揚が賛成して地元の有力者に働きかけ、明治30年(1897)浦賀船渠株式会社が創設され、2年後にはドライドックが建造されました。
浦賀船渠株式会社は、浦賀重工業㈱を経て住友重機械工業㈱となり、平成15年(2003)3月に閉鎖されました。現在は限定したツアーで一般公開されています。
明治20年(1945年)に作られ残されているクレーン、明治32年(1899)に建造されたドライドックなど(いずれも浦賀生協付近からフランス積みのれんが塀越しに見ることができます)に、当時の面影を偲ぶことができます。

市制施行70周年期記念  横須賀風物百選 「浦賀造船所」


浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工場株式会社追浜造船所浦賀工場です。
 創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。

この造船所は、明治29年(1896)、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め翌年、明治30年(1897)6月21日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は100万円でした。
そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技術面や設備面で大きく立ち遅れていました。
その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその なかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約150円で雇いドックを築きました。

明治35年(1902)10月15日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を進水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも 国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、14隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しました。

しかし、造船所の歩んだ道は、決して楽ではなかったようです。明治41年(1908)発行の「三浦繁昌記」の浦賀町の項には、「・・・現今は、浦賀船渠 会社を唯一の顧客として商業を営み、此の会社の弛張(しちょう)興廃は町の景気に大なる影響を及ぼしている・・・」とあり、造船所の浮き沈みが、そのまま 町民の一喜一憂につながっていた様子をよく言い表しています。

以後今日まで、様々な歴史の移り変わりにつれて盛衰を繰り返してきました。この間、ここで建造した艦船は約1,000隻に達します。

※1977年、横須賀市制70周年記念事業として「横須賀風物百選」を選出した際に作られた説明板の全文です