怒田城址の画像

怒田城址

(ヌタジョウシ)
三浦氏により築かれたと伝えられています。海上活動を活発に行っていた三浦一族は、まさに「海の武士団」とでも言うべき集団で、怒田城址はその根拠地でした。
衣笠合戦の折、和田義盛は「要塞堅固な怒田城で戦おう」と主張しましたが、大介義明は「衣笠城こそは世に聞こえたる城よ」とその意見を退け、衣笠城に籠り戦いました。
おそらく衣笠城の落ちる寸前に三浦一族は密かに間道を通ってここまで逃れ、隠しておいた船に乗って安房を目指したものと言われています。船を置いた一帯には、「舟倉」という地名が残っています。
現在この地は「吉井貝塚を中心とした遺跡」として、県指定史跡になっています。

INFORMATION基本情報

住所
横須賀市吉井1丁目周辺
アクセス
京急久里浜駅またはJR久里浜駅から徒歩約20分
駐車場
なし
お問合わせ
スカナビi (横須賀観光インフォメーション)
Tel:046-822-8301(9:00~17:00)

ABOUTスポットについて

歴史・文化
市制施行七十周年期記念  横須賀風物百選 「怒田城址」

この道を登りきった台地を台崎、または城山と呼び、怒田城のあった所です。
平安時代の末期、平太夫為通は、源陸奥守頼義に従って前九年の役に出陣し、その戦功により三浦の地を与えられ、三浦氏を名乗りました。
為通、為継、義継と代が変わり、第四代、三浦大介義明の時代になると、その勢力は、相模の中部にまで及ぶようになりました。そして、三浦半島の 要所に子弟を配置して、衣笠城の守りとしました。その中の一つが怒田城で、義明の末弟・三浦四郎義実(岡崎氏)が岡崎城に去った後、義明の長男・三浦太郎 義宗(杉本氏)が居城したといわれています。
当時の城は、天然の地形を巧みに利用してそのまま城としたものでした。ここ怒田城も、現在の内川新田から佐原辺りにかけて深く入り込んだ入江に面し、そこに突き出していた台地を城郭としたものです。
源平盛衰記に「怒田の城は三方は石山高うして、馬も人も通ひ難き悪所なり、一方は海口に道一つ開けたれば、よき者十二百人あらば、たとい敵何萬騎寄せたりとも、たやすく責め落とすべからず」と記されているほど要害堅固な城でした。
源頼朝が、伊豆での旗挙げに敗れ、これに味方した三浦氏と、平家側についていた畠山・江戸・河越氏との間に衣笠合戦が起こります。三浦大介義明 は、衣笠城と共に命を落としましたが、次男の荒次郎義澄以下の一党が久里浜から房州へ無事脱出しました。これには、怒田城の支えが大きな役割をはたしてい たと考えられています。東の谷を船蔵といい、常に三浦水軍の船がつなぎとめられていたといわれています。現在ある「舟倉」の地名は、そこから起こったもの と思われます。
昭和三十五年、この台地から縄文三期の貝塚が発掘され、昭和四十八年に吉井貝塚として県指定史跡となりました。

※1977年、横須賀市制70周年記念事業として「横須賀風物百選」を選出した際に作られた説明板の全文です

神奈川県指定史跡 「吉井貝塚を中心とした遺跡」
昭和四十八年十一月二日指定  昭和五十五年九月十六日追加指定

遺跡は、平作川に面した標高約二〇mの台地上に立地しています。遺跡の中心となる縄文時代の貝塚は第一貝塚と第二貝塚の2地点にわかれて 台地の斜面に存在し、台地上は縄文時代、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての集落址となっています。さらに、台地全体は平安時代末期の山城(怒田(ぬた)城)跡と考えられています。
第一貝塚は昭和三十五年に発掘調査が実施され、縄文時代早期から中期にかけての土器、石器、骨角器などが多量に出土し、当時の文化内容を明らかにするうえで多大な成果を収めました。
また、第二貝塚も平成四年に発掘調査が行われ、ほぼ同様の時期、内容を持つ、きわめて保存の良好な貝塚であることが確認されました。
平作川をはさんで対岸約八〇〇mの位置には県指定史跡「茅山(かやま)貝塚」が存在しますが、これらふたつの貝塚は縄文時代早期において、ほぼ同じ時期に残されたもので、遺跡相互の比較研究のうえで重要な位置を占めています。

平成八年三月

※横須賀市教育委員会が立てた説明板の全文です

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