
長岡半太郎記念館・若山牧水資料館ナガオカハンタロウキネンカン・ワカヤマボクスイシリョウカン
長岡半太郎記念館・若山牧水資料館前の海岸は公園として整備され、二つの牧水の歌碑が建てられています。 海を背にして見て右側にある歌碑は夫婦歌碑と呼ばれ、牧水の「しら鳥はかなしからずやそらの青海のあをにもそまずたゞよふ」、背面に喜志子夫人の「うちけぶり鋸山も浮かび来と今日のみちしほふくらみ寄する」が刻まれています。 若山牧水は大正4年、妻の病気療養のため北下浦に転居しました。酒と旅を愛した牧水らしく、2年足らずの滞在の間、北下浦海岸で獲れたシコイワシを肴に美酒を味わったり、野比川で釣りを楽しんだりしたと言われています。 「若山牧水」 若山牧水は本名繁、明治18年(1885)8月24日、宮崎県臼杵郡に生まれた。県立延岡中学校を卒業した後上京、早稲田大学に学び、明治45年(1912)太田喜志子と結婚した。大正2年(1913)長男旅人を出生したあと喜志子は体調が優れず、医師から転地療養を勧められ、大正4年(1915)3月に長沢の川端の家(斉藤松蔵方)に移り住んだ。 風光明媚、気候温暖な当地での静かな明け暮れのなかで、喜志子の健康は次第に回復し、大正5年(1916)11月には長女みさきが生まれた。 右に建つ「しら鳥」の歌は明治40年(1907)12月の「新声」に発表されたものであるが、牧水はまだ23歳の学生歌人であった。 碑の背面に刻まれた「鋸山の歌」は、妻喜志子が当地に住んでいる頃「海辺に移りて」と題して発表したもので、表裏合わせて「夫婦歌碑」と呼ばれている所以である。昭和28年(1953)に建立された。 左にある「海越えて」の歌碑は、昭和62年(1987)に建立された。歌集「砂丘」のはじめに「三浦半島」と題して「病妻を伴い三浦半島に移住す、3月中旬の事なりき」と記したあとに発表した長沢海岸から房州鋸山を詠んだ歌である。 「漂白の歌人」と言われ、旅と酒を愛した牧水は、地域の人々との温かいふれあいもあって、喜志子の日常も順調にすすむようになり、大正5年(1916)12月28日東京小石川に引揚げていった。 横須賀市 ※横須賀市が立てた説明板を掲載しました
information
基本情報- 住所
- 〒239-0842
横須賀市長沢2-6-8 - アクセス
- 京急長沢駅から徒歩12分
- 料金
- 無料
- 営業時間
- 9:00~16:00(昼休みを除く)
- 定休日
- 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
- 駐車場
- 無し ※北下浦行政センターもしくは北下浦市民プラザの駐車場を利用可能。
大型車(バス等)のご利用はできません。
(行政センター駐車場利用時は警備室で駐車場利用簿のご記入をお願いします。) - 公式サイト
- https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2756/sisetu/fc00000328.html
- お問い合わせ
- 046-848-5563