衣笠城址の画像

衣笠城址

(キヌガサジョウシ)
横浜横須賀道路の衣笠インター入口付近、歩道と石垣に挟まれて、「衣笠城追手口遺址」と書かれた小さな石柱があります。気を付けないと見過ごしてしまいそうな小さな石柱です。
かつてここに、平安時代から鎌倉時代にかけて三浦半島に勢力を張った「三浦一族」の本城がありました。
城といっても石垣もなければ堀もない中世の山城で、自然を上手に利用し、深山川・大谷戸川が堀の役目をしていたと考えられています。
「三浦一族」は、桓武平氏の子孫「村岡為通」が源頼義に従い「前九年合戦(1051~1062)」に参戦し、その恩賞として与えられた所領の地名を氏とし「三浦為通」を名乗ったのが始まりと伝えられています。
為通は所領の中心、衣笠に城を築きました。これが衣笠城です。
衣笠城を有名にしたのは、治承4年(1180)の衣笠合戦です。

INFORMATION基本情報

アクセス
京急横須賀中央駅より長井方面行バス「三崎口駅行」「長井行」他(約20分)「衣笠城址」バス停下車、徒歩20分
駐車場
無し
お問合わせ
スカナビi (横須賀観光インフォメーション)
Tel:046-822-8301(10:00~18:00)

ABOUTスポットについて

歴史・文化
頼朝挙兵(石橋山の合戦)から衣笠合戦まで
1180年、8月17日、源頼朝は平家打倒の兵を伊豆で挙げました。
三浦義明は、三浦義澄、和田義盛ら300余騎を頼朝の加勢に向かわせましたが、雨で増水した丸子河(酒匂川)で足止めされる間に、頼朝は石橋山の合戦で敗れ、箱根山中に逃れた後、安房に向かいました。
頼朝敗走の報を受けた三浦軍は衣笠城に引き返しますが、途中、鎌倉の由比ガ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇、合戦(小坪合戦)となりました。
この時は双方兵を引きましたが、26日に平家方の大軍が衣笠城に攻め寄せました。
攻め手の平家方は追手口より江戸重長・河越重頼・金子家忠など2000余騎、搦手からは畠山次郎重忠ら1000余騎。迎え撃つ三浦方は400余騎。三浦方は少数ながらも、多勢の平家方に対して奮戦したと伝えられています。
しかし、数に劣るうえ、小坪合戦で疲弊していた三浦勢の奮戦むなしく、衣笠城は落城しました。
三浦一族は城主義明を残し、源頼朝と合流するため船で安房に向かいました。残った義明は壮絶な最期を遂げました。
その後、頼朝と合流し平家追討に功をあげた三浦一族は鎌倉幕府内でも重要な位置を占め、再び衣笠城を拠点とし勢力を伸ばしますが、宝治元年(1247)第七代泰村が北条氏、安達氏との勢力争いに敗れ、衣笠城は廃城となりました。
衣笠城址とその周辺には、中世に栄えた三浦一族ゆかりのスポットが数多く残されています。

衣笠城跡案内図(横須賀市指定史跡)  衣笠城跡(市指定史跡)指定面積5331m

城跡といっても平安・鎌倉時代の山城(やまじろ)ですから石垣や天守閣はありません。
衣笠合戦(1180)は三浦一族と平家方との激しい戦いで、このお城を有名にしました。
しかし、現在ある衣笠城跡はその後、宿敵北条氏に対抗するため、鎌倉時代後期に大改造されたものです。
でもその後、三浦氏は鎌倉で滅ぼされてしまいます。(宝治元年・1247)尚、大正8年に物見岩の下から経筒、他が発見されました。

横須賀市教育委員会

※横須賀市教育委員会が立てた説明板の全文です

横須賀市指定史跡   衣笠城跡   昭和四十一年六月十五日 指定

山麓の右を流れる大谷戸川と左手の深山川に挟まれ東に突き出た半島状の丘陵一帯が衣笠城跡である。源頼義に従って前九年の役に出陣した村岡平太夫為通が戦功によって三浦の地を与えられ、所領となった三浦の中心地である要害堅固のこの地に、両川を自然の堀として、康平年間(一〇五八~一〇六四)に築城されたといわれ、以後為継・義継・義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地であった。
治承四年(一一八〇)八月源頼朝の旗揚げに呼応して、この城に平家側の大軍を迎えての攻防戦は、いわゆる衣笠合戦として名高い。丘陵状の一番裾が衣笠城の大手口で、ゆるやかな坂を登って滝不動に達する。居館は水の便の良いこの附近の平場にあったかと推定され、一段上に不動堂と別当大善寺がある。
さらに、その裏山がこの城の最後の拠点となる詰の城であったと伝えられる平場で、金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。また、その西方の最も高い場所が、一般に物見岩と呼ばれる大岩があり、その西が急峻な谷になっている。要害の地形を利用して一部に土塁や空堀の跡が残っている。
このように、この地一帯は平安後期から鎌倉前期の山城で、鎌倉時代の幕開けを物語る貴重な史跡である。

平成三年三月 横須賀市教育委員会

※横須賀市教育委員会が立てた説明板を一部修正したものです

散策
馬返しの坂
追手口より本城に向かう急な坂道を「馬返しの坂」といいます。「急坂に馬も引き返したくなる」という意味でしょうか。急坂の右手には比較的新しい石垣が数段あります。衣笠城は全体をひな壇式に切り開いたといわれ、この石垣がかつての切り岸(山すそを切り急ながけにする)の名残りと思われます。 不動の滝
大善寺の下に「不動の滝」といわれる水場があります。「天平のころ、行基がおはらいの水に困り杖で大地をたたいたところ、こんこんと水が湧き出した」という伝説が伝えられています。この水は、衣笠城の生活用水や戦闘用水として用いられたと考えられます。関東大震災までは、泉の水は坂の下まであふれ出ていたといわれています。

物見岩
大善寺本堂脇の階段を登ると第一の平場と呼ばれる開けた場所に出ます。かつてここには金峯蔵王権現堂がありましたが、現在は碑のみが残されています。平場の奥に進むと「物見岩」と呼ばれる巨岩があります。衣笠合戦の時、城主義明はこの岩の上から戦闘状態を確認し指揮をとったといわれています。
大正時代に行われた史跡整備の際、磁器の水差しや刀剣・経筒などが物見岩の下から発見されました。

矢竹(やたけ)
「衣笠城趾」バス停付近に竹やぶがあります。節間が長く、茎の断面が真円に近い竹で、和弓の矢の材料に使われることから「矢竹」と呼ばれています。
このあたりの地名を「大矢部」といいますが、「矢部」という地名は豊前(福岡・大分)筑後(福岡)肥後(熊本)駿河(静岡)など方々にあり、いずれも「矢」を作る職業人が住んでいたことから地名が付いたとされています。
横須賀市内の「矢部」(大矢部・小矢部)の地名も、「昔・矢竹を貢物にしたのに由る」と伝えられています。

咳地蔵(せきじぞう)
衣笠合戦のさなか、平家方の武将 金子家忠を和田義盛が弓で射倒しました。三浦与一は、その首を取ろうと駆け出しますが、それを阻もうとする金子与一(十郎の弟 ※諸説あり)と、二人「与一」の一騎打ちとなりました。
強力で知られた三浦与一が金子与一を組み伏せた時、三浦方の味方が手助けをしようと「三浦与一殿は上か下か」と呼びかけました。応じようとする三浦与一ですが、風邪のために即座に声が出ず「おっおっおっ」と咳き込んだその隙に、あえなく最期を遂げたといわれています。
三浦与一が風邪を引いていなければ命を落とすことはなかったと、その後ここにお地蔵さんが祭られました。このお地蔵さんは咳に効くと言われ「咳地蔵」と呼ばれるようになりました。

衣笠城搦手口(からめてぐち)
不動の滝を過ぎ、大善寺に続く階段を通り越して進むと切り通しの道になります。この周辺は、衣笠城の西木戸裏口にあたり、馬一頭がやっと通ったであろう小道が続きます。衣笠合戦の折に和田義盛・金田頼次(義明の娘婿)ら150騎が守り、攻めたのは平氏方副将畠山重忠等1,000余騎と伝えられています。
搦手口から南の平地は兵の訓練を行った練武場跡、周辺には土塁跡が残り、急坂を下った処に水喰い井戸(馬喰い井戸)や堀口が残っています。上手の平地には馬屋があったといわれています。
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