走水水源地と旧水道トンネル

 走水は、横須賀市水道の始まりの水源地です。降水後20数年を経て涌き出る水は、一日約2,000m3、カルシウムなどを多量に含み、おいしいことで有名です。艦船に積まれたこの水は赤道を越えても腐らなかったといわれています。
 水源地は桜の名所で、青い海を背景に咲く桜の花は見事です。開花時期(3月下旬〜4月上旬)には、花見客に一般開放されます。
 明治9年(1876)、横須賀造船所のフランス人技師ヴェルニーは、走水の豊富な湧水を利用し造船所の用水を確保するため、約7kmの水道管を敷設しました。
 馬堀小学校との間にある二つのトンネルは、その際、水道管を通すために造られたものです。建造当初は細い1本のトンネルでしたが、その後、軍用道路として拡張されました。
 水源地の山際にあるイギリス積みの赤れんがの建造物は、明治35年(1902)に完成した貯水池です。上屋はれんが造りで内部天井がアーチ型の「ヴォールト屋根」になっているのが特徴。古びたれんが積みが歴史の重みを感じさせます。
 海側には、明治41年(1908)に完成した、日本最初期の鉄筋コンクリート建造物の一つに数えられている浄水池があります。道沿いから見ることはできませんが、桜の時期の開放日には目にすることができます。
市制施行七十周年期記念  横須賀風物百選

「水道水源地」

 現在、本市の水道水源は、中津川、相模川、酒匂川とこの走水の四水系です。しかし、大地震が起きたときに頼れる水源は、この走水しかありません。この水源地で四十一万市民に供給できる水量は、一日につき、一人当たり約五リットルです。衣類の洗たくなどはできないにしても、食べ物の煮炊きや飲み水は賄える量です。
 ここ走水一帯は、昔から地下水の豊富なところとして知られ、明治初年頃、水おけで飲み水を市民に売り歩く商売がありましたが、その水は、この走水地内仲町のわき水を船で運んだものだといいます。
 現在地の水源を発見し、市内で最初の水道を実現したのは、横須賀製鉄所や観音崎灯台の建設に功績を残したフランス人技師、フランソワ・レオン・ウェルニーです。
 明治七年五月二十七日、この水源地から横須賀造船所(現米軍基地内)までの約七キロメートルの水道工事に着手しました。内経約十二.五センチメートル、長さ一メートルの土管をつなぎ合わせて埋設し、土地の高低差を利用して水を送る自然流下方式で、明治九年十二月に完成しました。
 その後、水道管は土管から鋳鉄管に替わり、内径も約二十センチメートルになりました。更に明治三十四年から三十五年にかけて内径約二十五センチメートルの水道管が敷設され、動力ポンプによる送水方式となりました。それまでの水道は、軍需用でしたので、市民の水道を敷設するため不要となった水道管すべての払い下げを受け、走水の覚栄寺境内のわき水を水源として、大滝・若松・小川の三町に送水を開始しました。市制施行一年十か月を経た明治四十一年十二月十五日のことです。使用戸数は三百三十二戸と記録されています。

※1977年、横須賀市制70周年記念事業として「横須賀風物百選」を選出した際に作られた説明板の全文です

「走水隧道(はしりみずずいどう)」

このトンネルの前身は導水隧道で、明治九年横須賀造船所(後の横須賀海軍工廠(こうしょう))に、走水の湧き水(わきみず)を送る土管を敷設するために掘られた。当時は、およそ幅が一米、高さ一・五米、長さ三二〇米の素掘で、途中海側に明りとりの丸窓がついた一本のものであった。
 その後、東京湾要塞(ようさい)として走水・観音崎地区の重要性が高まり、車馬による交通路を確保するため、軍によって明治十六年、およそ現在の規模に拡張された。こちら側を「走水第二隧道」、馬堀側が「走水第一隧道」呼ばれ、入り口アーチの煉瓦積みの古色に、当時の面影を残している。

平成三年十二月
横須賀市
大津地域文化振興懇話会

※走水随道にある解説板の全文を掲載しました

スカップ3歴史マップ(幕末〜近代編) エリアマップ馬堀海岸駅〜観音崎

横須賀写真ライブラリ 地図 走水海岸周辺のお店情報 ここはヨコスカ トップページへ

ページの上へ戻る